改めまして、モニカです。
前回の「20代後半編」から来ていただきまして、ありがとうございます!
ということで、今回は30代前半の「これからホテルの面接へ」のお話を続けます。
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楽し過ぎたホテルでの面接
派遣をしながらホテルの求人を探し応募していましたが、なかなか面接まで行かないことを繰り返していました。。。
そしてとうとう返事をくれたのが、街でも大きなホテルで、当時いつも新聞で何かと話題になっていた人気のあるホテルでした。
私はイギリスの頃のようにフロントで働ければいいな~というイメージで応募したのでしたが、面接してくれたホテルの人事部長に言われたのは「フロントは、実は20代新卒の子がほとんどで…」と言葉を濁されました。。。(日本では、やっぱり若い子にこだわるのね・・・涙)
「でも、今日はあなたに紹介しいたい人がいます!」
そういって紹介されたのは、パンツスーツの颯爽とした素敵な女性の広報部長でした。
これまでの経歴やイギリスでの話等を聞かれ、「じゃあ、この後時間はありますか?」と言われ、連れていかれたのはホテル内の豪華なレストラン。
広報部長ご自身の話やちょっとプライベートなことなどを楽しくおしゃべりしながらご馳走になって、最終的には「いつから来れますか?」という事になったんです!
こんなに簡単に決まっていいのかしら?というくらい簡単に、私はホテルに就職しました。
憧れのホテル勤務!それなのに…
何とか「見積担当」の契約終了を待ってもらって、すぐホテルでの勤務が始まりました。
職種は「ホテル広報」という、初めての職種でした。
初勤務日から2日目には、「アメリカのガイドブックの記者が来るので、レストランで接待お願いします」と言われ冷汗をかきながら、つたない英語で接待したのを覚えています。
ただ広報の仕事は本当に範囲が広く、初日から一気にいろんな種類の仕事に取り掛かることになりました。
ホテルやレストランのPR関連から取材対応に売り込み、そしてホテル季刊誌の撮影準備や撮影の立ち合い、ホテルVIP顧客へのデータ作成や対応、競合調査…など数限りなくありました。
撮影備品のアイロンがけは一生分し、気が遠くなるほどのキラキラなクリスマスツリーも大量に飾り付けました。
過去分のデータ整理や分析、そして各種イベントなどの応援などもありました。
毎日早朝から終電までの間、脳のこれまでと違う部分を使っている感じで、混乱の中必死で学びました。
そのため、週二日の休みはなにもできずひたすら寝ている…といった感じでした。
広報はホテル全部の部署と話さなければならないことも多かったのですが、総支配人から部長・課長・レストランの料理長を含め全部署の人とも広報活動のため一緒に動くこともあり、仕事を通して多くの人との信頼関係を築けたことは、何よりものかけがえのない私の財産となりました。
実は今でもこの頃の同僚や上司とは時々会える関係です。特に、この時の広報部長は、今でも何でも真っ先に相談する人生での大切な友人の一人となりました。
ただ、吸収しなければならないことが多すぎた上にやりたいことも出て来たり・・・と自分の中ではいつもストレスとジレンマで悩み、精神的に安定してなかった時期でした。
フラフラになりながらも必死で仕事をしていたさなか、当時お付き合いしていた遠距離恋愛中の彼から「仕事か、俺か」(よくあるパターンです…)と言われました。
30代になっていた私は彼を選び、やっと慣れて好きになっていたホテル広報を退職することに決めました。
ホテルでは引継ぎをしつつ退職の準備をし、彼の住む町での仕事を探しなんとか移住の目途をつけていたのですが、なんと退職寸前に彼から突然一方的に別れを告げられてしまったのです。。。
ということで、私はまた全てを失ってしまいました。
再び廃人の日々…
ホテル退職後は、失恋のショックでほぼ何も出来ない状態でした。それぐらい、彼が本当に好きでした。
その後は実家に戻って、ほぼ家に閉じこもっていました。
見かねた親が心配してなにかと外に連れ出そうとしてくれましたが、庭の草むしり以外何もする気が起きませんでした。火炎放射器で、ダンゴ虫と雑草を焼くのに唯一ハマっていたりして、本当に病んでいてヤバかったです。。。(でも火炎放射器は上手に使えるようになりました。)
半年ぐらい引きこもって何もしなかった頃、以前お世話になった人材派遣会社の営業さんから連絡がありました。
すっかり気心も知れていた営業さんに話したところ、自分も過去辛い時期にスポーツに目覚めて、いろいろ吹っ切れたんですよ~という話を聞いて、勢いで私もそうしようと決意しました。
という事で、派遣社員として紹介された学校法人の事務職に就くことになりました。
そして「スノーボードの合間に仕事ができるように」、営業さんが上手に先方にスケジュールを入れてくれて、私はシーズン券を買って0からのスノボ習得にとりかかることにしました。
多分、精神状態も普通ではなく、勢いで適当にチャレンジできるものを選んだ?ようです。。。
最初は全然立てなかったところから始めて、上から止まらずに滑り降りてこれるレベルになった頃、前職のホテルの同僚たちから「今どうしてるの?」と連絡が来るようになりました。
みんなは私が彼のところに行って幸せにしていると思っていたようです。
実は…と話すと、同僚たちは物凄く驚き、仲良くしていた料理長から「そんな弱気ではだめだ!」と叱咤激励されました。
その後その料理長から連絡があり「新規ホテルの開業準備で何でもやれる、と推薦しておいた」とあるホテルの開業準備室を紹介されました。
総支配人の面接を受け、あるホテルの開業準備スタッフとして春から働くことになりました。
ホテルの開業準備室で一から立ち上げ!
また希望のホテル業界で働けるようになったのですが、この時の開業準備室には私が入った段階でまだたった4名の、小さな準備室でした。
さらに開業までにたった半年しかないというタイムリミットもありました。
私の担当は、開業後は広告宣伝や商品企画とVIP対応兼務、と言われていましたが、開業準備室のキャパを見ると「手あたり次第できることを全部やらなくてはならない」状態なのがわかりました。
ロゴマークやパンフレット、看板などの制作物から開業に向けての広告計画、客室の備品調達の見積取りや選別、更には開業に向けて全体の採用計画を立てて、当座の経理も引き受けました。
ホテルは当時の建物をリニューアルする形の工事が入っていたので、ヘルメットを被って現場に入り進度をチェックしたり、工事の打ち合わせにも立ち会い部屋のデザインなどにも携わり、それに合わせて他の計画を進めなくてはいけませんでした。とにかく何でもやるのに必死でした。
採用活動では、採用媒体との打ち合わせをこなし募集から採用面接までをトータルでコーディネートし、レストラン周辺やホテルバックヤードはもちろん、事務・設備・ハウスキーピングまでの幅広い候補者と会いながら採用業務を担当しました。
多くの方との面接の中で、「採用は面白い」という印象を持ちました。
なにより、この頃の「新しいホテルをみんなで作っていく」という高揚感は滅多に味わえない体験でした。睡眠不足でも工事現場に修学旅行のように雑魚寝をして、みんなで乗り切ったことは今でも忘れられない思い出です。
開業寸前には、設備関連の立ち合いからハウスキーピング、レストランの仕事までもとにかく足りない所をみんなで補い合い”家族の様に助け合う”環境でした。
私も開業当初は、ベッドメーキングから清掃、家具の組み立てや設備点検にレストラン準備や接客までお手伝いました。人の足りない所にフォローに回ったり、さらに日々起こる様々な問題に必死対応の毎日でした。
ある夜、その筋のお客様が備品で怪我をしてしまった時などは責任者として、”舎弟”に囲まれるなか内心ものすごく震えながら、必死に冷静を装って対応したこともありました。(人生初土下座も経験…)
しばらくして本来の広報の仕事に戻りましたが、広報目標として立てていたものを120%達成することが出来た段階で、「もっと新しいことに挑戦したい」という気持ちが起きてきました。
開業一年後に、私は初めて前向きな気持ちで退職願を出しました。
すべての経験に一切の無駄無し!
お仕事でも私生活でも、経験した事は全部無駄にはなりません。
実は自分で「大したことない経験だし…」と思っていたことが、他の人にとって見れば「すごいな!」と思う事だったりすることもあります。
私が自分の経験を「使えるかも!」と感じたのは、採用面接の雑談の時です。
実は、ある時まで私はそれほど派遣時代の経験が役立つとは思っていなかったので、履歴書には書きませんでした。が、面接の際に「派遣でやっていた仕事」の話を詳しくした際に、「え?!そんなこともできるんですか?でしたら上のポストで採用検討したいのですが。」と言われたこともありました。
これをきっかけに、自分の履歴書を見直していったことで、書類通過が増えたんです!
私の使った履歴書を書くコツや職務経歴書などについてもここで書いているので参考までに。
そうです!どんなちょっとした経験でも使えるかもしれないんですよ~!
ということで、モニカの転職のお話は次回↓にも続きます!
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